くまがやねっとは、埼玉県熊谷市近隣の情報をお届けする非営利のコミュニティサイトです。
くまがやねっと
みんなのコミュニティサイト「くまがやねっと」へようこそ!
HOME>熊谷市文化財日記 アネックス →お気に入りに登録する →お友達に紹介する




くまがやねっと情報局
熊谷市文化財日記 アネックス
2013年1月28日更新 →バックナンバー
今回のテーマ

古墳群のある江南地域の地名
−野原と塩


 熊谷市立江南文化財センターは、「つくる、しる、ふれる」を基本コンセプトにして、市内の文化遺産として伝えられた「文化財」の収集、保管、調査および研究を行うとともに、これらの文化財の活用を図り、未来へ継承していく仕事をしています。
 「熊谷市文化財日記」を通して、市内にある素晴らしい文化遺産を多くの皆様にお伝えすることができたら幸いです。さあ、文化財という新たな旅へ一緒に出かけましょう。

江南文化財センター  TEL 048-536-5062
熊谷デジタルミュージアム
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

野原
 踊る埴輪が出土した「野原古墳群」が所在する野原地区。その「野原」は町の東南郡を占める平坦な台地上に位置し、和田川に面して東西に広がっています。地名の起りは平担な地形に上るものと思われ、地名辞典等でも多くの類例を掲ています。地区内には原の付く小字名が所々に残っていますが大方は神々にちなむ名・建造物から採った名がみられ、早くから開発の手が入っていたと考えられます。「能満寺・味尊堂・八幡前・諏訪脇・寺裏・元境内」は寺院神社の故地である可能性があり、能満寺伝承の背景とな地名です。
 「道祖神・鹿島・庚申塚・能野・荒神」は土地の神、塞ぎの神にちなむものです。なぜ、このように寺社・神名に由来する地名が多いのでしょうか。特別な場所、聖域との認識が当時の人々にあったのかもしれません。有名な「踊る埴輪」を出土した野原古墳をはじめ、能満寺の伝承など幾多の歴史文物を伝えています。多くの参拝者で賑い、憩いの場ともなっている文殊寺にも古寂とした歴史が伝っています。貴重な文化財を多く残す「野原」の地名が記録に現れる時期はそれほど古いことではありません。
 戦国時代末、豊臣秀吉は関東平定のため小田原城に篭った後北条氏と支城を攻めました。後北条氏は家臣団を招集し、対抗しますがあえなく亡びてしまいます。この項、後北条方の家臣、武士名を記した文書に「小田原衆所領役帳」があり、家臣団の構成や支配関係を知る重要な資料です。この文書中の御馬廻衆の項目に「閼伽井坊 捨三貫文 松山 野原」の記述があります。この一項は熊谷市野原と閼伽井坊と呼ばれた人々(又は寺院か)との関係を推測させます。「松山」は後北条氏の支城・松山城(現吉見町)の領地のことで、「野原」は「松山」領に含まれていたようです。閼伽井坊は個人名という上り寺院の一郡の建物に住む一団の人々を指すと考えられますおそらく閼伽井坊の人々は街々を住来した修験者の集団で、各地の交通・情報に通じていたため、戦国大名のために働いたのでしょう。文殊寺の広大な寺域は堀と土塁で囲まれ、内側にも方形に囲む堀が残るなと城塞であったことを忍ばせます。汀戸時代に寺領二十石の朱印状を与えられ、末寺364ヶ寺を抱える大寺院となり、現在も知恵の文殊寺として親まれています。
 戦国末期の野原・文殊寺の様子は資料が少く不明と云わざるをえませんが、天正二十年(1592年)に甲斐武川衆の知行地へ与えられています。その後、元和年間(1620年頃)には旗本稲垣氏が領主に替り、「須賀広」に陣屋を置いた代官田村氏の支配を受けています。八幡神社に残る改修棟札に、稲垣、田村氏の名が残っています。

熊谷文化財日記 アネックス
野原地内の文殊寺

 県指定史跡「塩古墳群」が所在する塩地区。「塩」は文字のとおり塩と関係があるのでしょうか。土地から塩が採れたるなど、交易品として集った事実は明らかではありません。日本では食用塩は海でしか採れないため、内陸にある塩関係の地名は交易地・集荷場などと関係を見出せない場合、別の意味が考えられます。県内には塩の付く地名に塩沢・塩谷・土塩がありますが、塩に関係しているのは、中世塩谷荘の名を受け継ぐ児玉郡の塩谷の場合で、他は無関係のようです。
 視点を変えると先の地名は県北にあり、丘陵・台地などに谷津が入り込んだ場所に付けられています。地名辞典などには、「シオ」はシワと同じ意味を持ち、谷津の入り組む地形を呼ぶと説明しています。おそらく、熊谷市の「塩」の地名も地形に由来するものと思われます。実際、「塩」地区は「正木・駒込・諸ヶ谷・久保ヶ谷・檜谷」などの谷津に区分された丘陵地と緩斜面からなっています。
 古事記にみえるイザナギ・イザナミ両神の行う国産神話には、海を掻き混ぜた矛の先より滴り落ちる海水のコロコロと固まり重った塩が最初の国土になったとありますが、土地が重ったような起伏の大きい場所のイメージをシオに対して当時の人々は抱いていたかもしれません。このような谷津地形は、水田を造ることが容易なため古くから開拓されています。
 別の説明には、渋・柴の意味をもち、シブイ・シポイという形容詞で、硬い土くれのやせた土地を意味するといいます。この説明は「塩」地区周辺の谷田・川沿いの沖積地が古くから開墾されたことと関係するかもしれません。米作以前の生業は、焼畑を主としソバなどを植えるなど、森の果実、根菜類の採集が主であったと考えられます。
 こんな環境であったため、湿地に妙な草を植えると美しい実が獲れるという話が伝わると、なんとか種籾を手に入れ、開墾にも力が入ったのかもしれません。塩古墳群を造った人々は、この地にいち早く米作りを成功させたと考えられ、四世紀頃は、谷津田や和田川、滑川の周辺は稲苗が青あおとしていたはずです。
 低地を拓き、斜面に住い、周囲に畑を持ち、背面の丘陵を山林として残し、頂上に祖先の墓域を安んずる。このような塩地区の景観は、まさに郷土の原風景を伝えているといって良いでしょう。
 「塩」の文字が文献に見えるのは、戦国時代末期、武田家の旧臣甲斐武川衆の一人伊藤新五左衝門尉重昌に知行地として与えたことを記したものです。伊藤氏の領有期間は短かかったのですが、八幡神社の北側に館跡・常安寺には慰霊碑を残しています。また常安寺には太平記の時代に作られた板碑も残りますが、当時どんな武士たちがいたのかまったく伝っていません。

熊谷文化財日記 アネックス
塩地区上空から赤城・妙義山を望む



作成日:2012年12月3日/作成者:江南文化財センター

→バックナンバー


HOME Pageの上へ↑

みんなのコミュニティサイト「くまがやねっと」
Copyright© くまがやねっと. All rights reserved. サイトマップ お問い合せ くまがやねっととは?
運営会社:大和屋株式会社