まる人が後を絶たなかったと言われています。
明冶5年、我が国の蚕卵製糸模範所調査のために、来日したイタリア人のフレシアンとシコキアの2人も元素楼に留まって勘衛から熱心な指導を受けました。
さらに同6年には、時の昭憲皇后、英照皇太后両陛下が群馬県富岡製糸場へ行啓の折、元素楼に立ち寄られて養蚕の状況や田植えの仕事をご覧になるなどのこともあり、勘衛の名声はますます高まったのでした。この様子について、『東京日日新聞』明治6年7月4日には次のように記されています。
『皇太后宮、皇后宮 武州鯨井勘衛宅へ行啓養蚕業を台覧』
熊ケ谷県管下、武州幡羅郡玉井村、蚕種大惣代鯨井勘衛なるもの、積年養蚕の術を、普く研究し、空気の運転を緊要とし、三階造り四面無壁、中央より蒸気を発散し、蚕を清潔に飼立、元気を盛にする巨大の桑園を以て、年々純粋の美繭良卵を製造す、実に此道の長たる人の知る処也。今般忝も皇太后宮、皇后宮上毛行啓の節、同家へ御小休、楼上へ御着座、蚕簇繭蛾等を天覧有て、本邦白黄の精繭、西洋原種の蛹等、各種献上為たり。還御の節、田植御眺望に御輦を被為留、早乙女共へ御賞典ありし由、同所より来りし人の話也。
耕織は富国の基礎にして、就中上州製を以、最上品と称す、然るに方今武州産出の上等なる物は、其他の不遠ゆへ歟、上州種に異る事なし、嗚呼如斯勧業の道を開かせらるる、政体の忝き、衆庶仰ぎ畏みて勉励し、尚国家の隆盛を祈るべし。
(『東京日日新聞』明治6年7月4日)
勘衛が築いた養蚕の技術によって、製糸の原料が格段に増加し、当時の日本を代表する富岡製糸場など近代産業発展の下支えとなったことが窺えます。 |