今回はふるさと自慢「妻沼いなり寿司」のルーツに迫ってみました。
三大稲荷といなり寿司
三大稲荷の一つ目は伏見稲荷、二つ目は豊川稲荷、そして三つ目は、各地域で入れ替わってきますが、関東圏の笠間稲荷に決定しましょう。
三大稲荷の門前は、いなり寿司のお店が連なります。最近では、「いなり寿司で豊川市をもりあげた隊」といった地域全体で「いなり寿司」のPR活動を展開しています。
それぞれ稲荷信仰と結びついたもので、豊川稲荷といなり寿司の紹介では、「19世紀初めごろ、稲荷にお供えしてあった油揚げの中にご飯を詰めてお寿司にしたものが起源とされており、諸説がいろいろとありますが、江戸や名古屋と並んで豊川稲荷の門前町も、発祥の地のひとつとして伝えられています。」と述べています。
豊川稲荷門前のいなり寿司店
いなり寿司は何時ごろ誕生?
いなり寿司の史料として江戸時代に書かれた守貞謾稿(もりさだまんこう)に記述があり、近世商売尽狂歌合(きんせいしょうばいづくしきょうかあわせ)に屋台で売る商人の姿が描かれています。
これらから推測すると、いなり寿司は江戸末期に誕生したものと思われます。
前段で紹介した 町村合併50周年記念要覧の宝暦年間(1751-1763)より後の時代と思われます。
近世商売尽狂歌合の稲荷寿司の絵
妻沼のいなり寿司のルーツ
妻沼の聖天さまは関東の三大聖天(妻沼聖天、待乳山聖天、平井聖天)の一つとして多くの参拝者がありますが、江戸時代は現在以上に江戸との往来があったのではないでしょうか。江戸のまちで売り出されたいなり寿司が、妻沼地域に持ち込まれたのではないかと想像します。
現在の妻沼の細長い寿司と同じような形の寿司が、屋台で売られている風景が「近世商売尽狂歌合の絵」に描かれています。そして、切り売りもしている様子です。棒状のいなり寿司が原型で、それが小さくなり米俵型に変化したのでしょう。妻沼のいなり寿司は原型を留めているのでは。
妻沼のいなり寿司
妻沼地域と稲荷信仰
妻沼地域は古くから稲荷信仰が盛んであり、斉藤別当実盛公が大聖歓喜尊天を勧請した以降は聖天信仰と一緒になって、地域の総鎮守となってきました。
聖天山西参道の入口に妻沼のいなり寿司元祖の森川寿司店があり、参道を入ってすぐに赤子稲荷神社があります。
旧妻沼町誌によると、874年(延暦3年)に赤子(しゃくし)の地に祭祀された古社です。赤子は、聖天山から約700メートル西側に現存する小字名です。現在地には昭和34年に移されました。
森川寿司店をはじめ西参道周辺の家々で、現在も守られてきています。
赤子稲荷神社の祭礼「初午祭」が3月10日に行われます。
赤子稲荷神社
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*参考
守貞謾稿(もりさだまんこう) 近世風俗史の基本文献、江戸時代の風俗、事物を1600点にも及ぶ付図と詳細な解説。著者は喜田川守貞。起稿は1837年(天保8年)で、約30年間書き続けて全35巻(「前集」30巻、「後集」5巻)をなした。
近世商売尽狂歌合(きんせいしょうばいづくしきょうかあわせ)1852年(嘉永5年、著者石塚 豊芥子
*上記図書は埼玉県立図書館で閲覧できます。
近世風俗誌守貞謾稿 浦和図書館蔵
日本随筆大成第3期第2巻に近世商売尽狂歌合は収録 熊谷図書館蔵 |