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2012年12月14日更新 →バックナンバー
今回の趣味

第21回 能護寺と太田村の画家たち


 熊谷市妻沼中央公民館主催の『平成24年度くまがやを学ぶ講座』に参加しました。この講座は、渡邊崋山(わたなべかざん)・寺門静軒(てらかどせいけん)・奥原晴湖(おくはらせいこ)や文人・歌人・俳人など熊谷を訪れた歴史的人物にスポットを当てて紹介し、ゆかりのある場所を巡り、ふるさと熊谷の歴史・文化に親しみ、理解を深めることを目的に開催されました。
 講座で紹介された文人たちの多くは、妻沼聖天山との関わりも深く、このコーナーで順次取り上げてみたいと思います。
 今回は、講座の第4回目で紹介された中の、あじさい寺で有名な能護寺の格天井や板戸の絵画、能護寺で開かれた『雅会』及び太田村(現熊谷市太田地区)の画家たちにスポット当ててみました。
 第4回目の講師鈴木進氏の講義内容と、提供していただいた資料を基に作成しました。
(鈴木進氏のまとめられた『能護寺書画詩歌俳諧雅会調査報告書』平成21年9月を参考)

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●能護寺
 ご存知のとおり、能護寺は『あじさい寺』として県内外から訪れる人の多い、有名な寺となっています。
 簡単に紹介しますと、寺の名称は、高野山真言宗能満山能護寺といい、天平15年(743年)に鎮護国家の勅願道場として行基上人が開山し、後に弘法大師空海が再建されたと伝えられています。
 本堂は、寛政7年(1795)に焼失し、その後再建され、いく度かの修復が行われ現在に至っています。

妻沼聖天山界隈
能護寺


●能護寺の格天井、板戸の絵画
 能護寺の江戸末期から明治にかけての修復に際し、北関東の絵師が数多くの作品を手掛け、それらが保存されています。
 講座最終回は、ゆかりの地を訪ねる見学会でしたが、能護寺の本堂内の格天井及び板戸の作品を見ることができました。
 金井烏洲(かないうじゅう 上州島村、現在の伊勢崎市)、岩崎栄益(いわさきえいえき 太田村飯塚)、荻原春山(おぎはらしゅんざん 太田村永井太田)、樋口春翠(ひぐちしゅんしょう 中条村上中条)の作品を写真で紹介します。

妻沼聖天山界隈
金井烏洲

妻沼聖天山界隈
岩崎栄益

妻沼聖天山界隈
荻原春山

妻沼聖天山界隈
樋口春翠と弟子たち

●能護寺で開かれた雅会
 明治26年及び29年に、能護寺を会場にした集まりである『書画詩歌俳諧雅会』の案内状(目録)が残されていました。 
 雅会は風流な集まり。詩文などを作る風雅なつどい(新漢字林)とありますが、当時の著名な書家、画家、文人が一堂に集まり、その会場で作品を作り、販売したのではないでしょうか。
 明治26年の案内状に掲載されている名前を見ていきましょう。上段先頭に東京からの著名人15人。渋沢栄一の師尾高藍香や国文学者の佐々木信綱の名があります。続いて北関東の諸作家60人が並びます。ここまでが、招待された著名人、作家たちでしょう。次に補助員という欄があります。妻沼地域及び周辺地域のパトロンなのでしょうか。183人の名前が続きます。
 次に幹事とあります。地元太田村の関係者23人。社員というのは、この雅会の運営者で17人。最後に後見とあって、太田村を代表する画家荻原春山、能護寺住職、歓喜院住職の名前が並びます。
 主催者が太田村の画家・茂木永洲(もてぎえいしゅう 荻原春山の弟子)で、会場は能護寺です。
 参会者数約300人ですが、目録に記載されていない人たちも作品を求め集まったと言われていますから、境内は人があふれていたことでしょう。
当時の太田村の世帯数は486世帯、人口3280人(明治22年のデータ)でした。それにしても、なぜ、これだけの文化人を集める催しができたのか、不思議です。その一端を紐解く背景として、太田村は江戸中期から明治期にかけて、多くの画家を輩出していることです。

妻沼聖天山界隈
書画詩歌俳諧雅会の案内状(目録)

●太田村の画家たち
市村忠七(いちむらちゅうしち) 永井太田 江戸中期の人 年代不明
 狩野金信の門人 妻沼聖天堂奥殿内外の絵や絵付け行う。
川田春益(かわたしゅんえき) 飯塚 宝暦3年(1753)-文化13年(1816)
 初代新田岩松家御用絵師 江戸に出て狩野派の絵を学ぶ。北関東の狩
 野派第1人者となる。

妻沼聖天山界隈
川田春益 

岩崎栄益 飯塚 安永5年(1774)-嘉永6年(1853)
 2代新田岩松家御用絵師 狩野派奥絵師伊川院栄信の門人。
 門人らと共に、能護寺の格天井、板戸に名画を残す。
大岡柳斎(おおかりゅうさい)八木田 文化7年(1810)-明治25年(1892)
 3代新田岩松家御用絵師 岩崎栄益門人となり、その後狩野派を学ぶ。
荻原春山 永井太田 文政4年(1821)-明治30年(1891)
 能護寺の長老知円房春園に絵を学び、上中条の樋口春翠(ひぐちしゅん
 すい)、江戸の狩野洞章らに師事。明治15年第1回内国絵画共進会に埼
 玉狩野派を代表し出展。当地画壇の第1人者となる。茂木栄洲をはじめ
 門弟多数。
茂木栄洲 永井太田 安政5年(1858)-大正8年(1919)
 荻原春山に師事、狩野派の画法を修める。明治26年の雅会の会主とな
 る。

 静かな田園地帯から、数多くの画家が登場した理由を明らかにすることはできませんが、妻沼聖天堂の再建、能護寺の再建や新田岩松家の存在が、影響したのでしょうか。
 それにしても、当時のパトロンとなった人たちは、芸術や文化に対して、現代人の私たちよりも関心が高く、その素養も持ち合わせていた思われます。
 最近の住宅は床の間もなく、掛け軸を飾る場所もなくなり、どんどん忘れ去られる分野です。ましてや、身近なところに存在していた芸術家たちとその作品を地域の文化遺産として、評価、保存し伝えることが大切です。
今回の妻沼中央公民館の企画に拍手!

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*参考
●太田村以外の画家
金井烏洲 寛政8年(1796)-安政4年(1857)
 江戸で春木南湖に南画を学ぶ、能護寺の内陣、格天井に作品を残す。
樋口春翠 上中条(現熊谷市) 寛政4年(1792)-安政3年(1856)
 狩野派、能護寺の格天井に作品を残す。門弟は荻原春山。

新田岩松家
 新田義貞の末裔。江戸時代は百二十石の石高で、十万石格の大名として認められていた。新田庄下田嶋(現太田市)に住し、猫大名といわれていた。上野には、新田一族による鼠の害が祟りとして伝わっており、岩松家代々の当主が描く猫の絵は鼠除けとして重宝されており、岩松家の貴重な収入源の一つになっていた。

●狩野派
 日本絵画史上最大の絵画のグループ。室町時代中期(15世紀)から江戸時代末期(19世紀)まで、約400年にわたって活動し、常に画壇の中心にあった専門画家集団。

●太田村
 現在熊谷市太田地区。明治22年に、武蔵野国幡羅郡の7つの村が合併し太田村になり、昭和30年の合併で妻沼町となって、更に平成17年の合併を経て、現在の熊谷市太田地区になっている。

●平成24年度くまがやを学ぶ講座の内容
 1回目 渡邊崋山
 2回目 寺門静軒
 3回目 奥原晴湖
 4回目 文人・歌人・俳人たち
 5回目 ゆかりの地を巡る



取材記者:逸見稔


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