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2013年1月28日更新 →バックナンバー
今回の趣味

第22回 女流南画家奥原晴湖の顕彰


 妻沼掛軸愛好会(鈴木進代表)主催による『奥原晴湖 没後100年記念展~奥原晴湖とその一門~』が、平成25年1月12日から14日までの3日間、熊谷市立妻沼展示館で開催されました。
 奥原晴湖(おくはらせいこ)の作品を会場正面に展示し、その両脇を弟子達の作品で飾ってありました。
 3日間という短い展示期間でしたが、奥原晴湖の生涯と作品に触れることができ、幕末から明治の動乱期に強く生きた、郷土の偉人の活躍を再認識しました。  
 今回は、没後100年ということで、熊谷市も『奥原晴湖』を取り上げた事業を計画されているようですので、その開催を期待しながら、まとめてみました。

妻沼聖天山界隈
妻沼展示館会場正面の奥原晴湖の作品


 東京で活躍していた時期の奥原晴湖の弟子は、300名を超す門弟が集まったと伝えられています。養女となった奥原晴翠(1852~1921)と内弟子として最後まで使えた渡辺晴嵐(1855~1918)、そして、熊谷時代の最後の弟子となった滝脇晴華(1896~1949)をはじめ、熊谷地域内には弟子やその影響を受けた画家、そして文化人が沢山いました。

妻沼聖天山界隈
弟子達の作品と見学者の皆さん

●奥原晴湖のプロフィール
 『奥原晴湖』という名前を聞いて、その実績や経歴を即答できる人は、少なくなっているのではないでしょうか。
 古美術や日本画の愛好者の中では、高い評価を得ていて、特に熊谷地域ではその作品を収蔵している人たちも数多くいます。
 それでは奥原晴湖を簡単に紹介しましょう。
 天保8年(1837年)に古河藩(現在茨城県古河市)の藩士池田政明の四女として生まれ、17歳の時に関宿藩奥原家の養女となり、江戸に出て画家としての道を目指します。29歳で画室『墨吐煙雲楼(ぼくとえんうんろう)』を構え、晴湖と号します。
 明治維新の動乱期に、女流画家として活躍し、南画界の第一人者となりました。その後、古河藩領の上川上村(現在熊谷市)に、交流のあった稲村家を頼り移住し、新たな画室『繍水草堂(しゅうすいそうどう)』を建てて、大正2年に亡くなるまで、22年間この熊谷の地で創作活動を続けてきました。

妻沼聖天山界隈
画賛から見る奥原晴湖 川島恂二著の一コマ

 熊谷市のホームページ『熊谷デジタルミュージアム』の『熊谷の偉人の部屋 奥原晴湖』に略歴、年表、関係図書及び作品6点が紹介されています。


●古河市の取り組み
 平成22年6月市議会で三浦和一議員は、一般質問で奥原晴湖の顕彰についての質問をされました。三浦議員は、生地古河市の取り組みを評価される一方、熊谷市での顕彰事業の貧弱さを指摘しています。そして、没後100年を機会に、市民の顕彰活動の支援、晴湖資料館の設置を要望されていました。しかし、市の回答はやや後ろ向きでしょうか。
 古河市は、市立古河歴史博物館に晴湖の師である鷹見泉石(たかみせんせき)のコーナー、古河の文人たちとして晴湖の作品や関係資料を展示し、博物館南側に、奥原晴湖画室繍水草堂を移築・復元したものを公開しています。

妻沼聖天山界隈
晴湖画室繍水草堂外観

 また、顕彰事業を進める重要な要素に人材の確保が欠かせません。古河市にあっては、晴湖研究の第一人者郷土史研究者川島恂二氏の活躍があり、著作や講演など顕彰活動を行っています。熊谷市の公開講座の講師として来熊され、熊谷市民の活動の支援をされていました。
 平成4年6月に開催された平成4年度美術講座の講義録は、今回の記事をまとめる上で、貴重な参考資料となりました。
 展示及び資料管理をする施設と研究者の存在が、顕彰事業に欠かせないことだと感じます。

妻沼聖天山界隈
晴湖画室繍水草堂内部

●南画?
 南画家奥原晴湖の肩書き『南画』とは?
 現在の日本美術界にあっては、死語になっているのでしょうか。
 中国の元・明の絵画である南宗画(なんしゅうが)に影響を受け、日本で18世紀半ば(江戸時代後期)に興った一つの画派をいいます。
 特に江戸時代後期に幕府御用絵師として君臨してきた狩野派に対して、新しい表現や自由な創作を求めて、中国の絵画を独自に学んだ人たちから生まれました。
 江戸時代末期に活躍した『池大雅』や『与謝蕪村』が南画の大成者といわれ、その後、浦上玉堂、谷文晁、渡辺崋山と日本画の歴史に残る画家が活躍しました。幕末から明治維新にかけて、衰微する狩野派を横目に、南画は大流行し全国各地に広まりました。
 大流行の時期に、奥原晴湖は活躍し、明治の南画界を代表する画家になったのです。
 南画の特徴といわれるのは、根底に流れる思想があることです。中国の文人画の考え方に由来し、優れた絵画は優れた精神、人格によって生み出されるという考え方で、絵の外形よりも画家の内面や精神を重視するというものです。もう一つは詩書画一致というものです。南画には画中に詩が書かれていることがありますが、詩とそれにふさわしい書体、詩の世界の絵画化、これが調和しているのがよい絵画であるというものです。
 しかし、美術界も変動の激しい時代の中で盛衰が繰り広げられ、明治15年の近代日本画の育成に尽力したアメリカ人、フェノロサの美術に関する講演の中で、南画が批判されたことがきっかけで、人気は一気に凋落してしまったのです。
 凋落の原因は、他にもあったのでしょうが、川島恂二氏は当時の文明開化の波に日本の伝統美術が飲み込まれてしまったと嘆かれています。
 
●森田恒友と南画
 明治39年(1906)に現在の熊谷市久保島に生まれた森田恒友は、奥原晴湖の最後の弟子滝脇晴華(1896~1949)と同時代の人です。
 晴湖や晴華との接点はなかったのでしょうか?興味が湧きます。
 埼玉県立近代美術館の企画展『森田恒友とその時代』(平成3年11月)の図録資料編に、学芸員平山 都氏の『恒友の水墨画』の中で、小川芋銭の言葉を紹介していました。
 「今の日本の南画と云ふものが新たに生まれて其親の名を問ふ者があったら自分は森田さんと答える」、というものです。 
 奥原晴湖と森田恒友の2人を結ぶ『南画』という言葉を見つけ、うれしくなりました。
 森田恒友も『熊谷デジタルミュージアム』の『熊谷の偉人の部屋』で紹介されています。

妻沼聖天山界隈
「森田恒友とその時代」の当時のパンフレット

●文化芸術を生かした地域づくり
 文化芸術を生かした地域づくりを目指す『創造都市ネットワーク日本』という組織が去る1月13日に設立されました。文化芸術を生かした施策が、地域の活性化を促すということで、各地で取り組みが進行中とのことです。
 熊谷市においても妻沼聖天山聖天堂の国宝指定や文化芸術分野の先覚者を生かした施策を、今後大いに期待しましょう。

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参考資料
 ・画賛から見る奥原晴湖 川島恂二著 平成3年6月12日
  株式会社りん書房
 ・平成4年度美術講座講義録ー「新知見・奥原晴湖」平成4年6月
  熊谷市立図書館 (講師:川島恂二氏) 
 ・「奥原晴湖展」図録 埼玉県立博物館 昭和53年10月21日
 ・奥原晴湖ー古河の女流南画家ー 川島恂二著 昭和60年2月15日
  筑波書林
 ・女傑画家 奥原晴湖・桂英澄著 昭和54年2月 埼玉銀行広報部
  以上埼玉県立図書館蔵。

 ・熊谷ゆかりの女性先覚者たち 熊谷市立図書館 平成12年2月2日
  熊谷市立妻沼図書館蔵
 ・セザンヌから浴衣がけの絵画へ 平野の詩人
  森田恒友とその時代図録 埼玉県立美術館 平成3年11月
 ・文化財講座日本の美術 4 絵画(明治~昭和)昭和53年2月15日
  第一法規出版

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*このコーナーの姉妹編となるホームページを作りました。ご覧になってください。
 ・『妻沼聖天山とその界隈



取材記者:逸見稔


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