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2013年10月6日更新 →バックナンバー
今回の趣味

第25回 聖泉湧出碑


 去る9月16日未明に発生した竜巻と台風18号の被害に、てんてこ舞いでした。友人宅が竜巻被害に遭い、16日の朝方お見舞いに伺いました。呆然として壊された家を見つめながら、「まさか自分の家が・・・・」とのつぶやきを聞くと、日本列島が災害列島になってしまったんだと思いました。
 「雨が小止みになったら、片付けの手伝いに来ますよ」と言って帰宅し、18号の進路予報に注意を払いながら昼食をとり、過ぎ去るのを待っていたところ、猛烈な西風によって、自宅の屋根瓦数枚とトタンが剥がされ、庭木やバラのアーチが倒される被害に遭ってしまいました。
 友人宅の手伝いと我が家の補修と庭の片付けで2週間。あっという間に過ぎてしまいましたが、竜巻被害を受けた家々や神社などの修復には、これから随分時間がかかる事でしょう。
 自然災害の猛威に遭わないように、被害が少なくなるように神仏に祈願してきた先人に思いを馳せながら、今回の記事をまとめました。

妻沼聖天山界隈
竜巻により被害を受けた白髪神社

 妻沼聖天山を取り囲む神社の一つ、白髪神社のご神木がなぎ倒されていました。鳥居は下敷きになり、社殿も一部損壊していました。
                                   (9月18日撮影)


寛保大洪水と聖泉湧出碑

 妻沼地域文化財調査研究会の金谷俊夫氏から、江戸時代の利根川洪水の歴史を調査された資料を提供されました。
 現在の利根川の築堤を見ると、この川が洪水を何度も繰り返し、大きな被害をもたらしたとは思えません。
 江戸時代の最大の洪水が、寛保2年(1742年)8月1日(旧暦)に発生しました。7月27日から降り出した雨が8月1日まで降り続き、関東平野は、利根川をはじめ各地の大小河川が溢れ、江戸をはじめ各地の被害は、「天、一切を流す」という表現が残されたほど甚大でした。

妻沼聖天山界隈
絵図面

 当時幕府は大洪水でずたずたになった利根川改修工事に西国大名をあて、現熊谷市妻沼地域の利根川普請を周防岩国(現山口県岩国市)の吉川家が担当し、復旧工事が行われました。その時の災害復旧に関わる絵地図などの史料が、山口県岩国市の岩国徴古館に残されていて、多くの史実が明らかにされました。
 写真は、「上利根川通妻沼村絵図」とあり、吉川家の普請小屋(絵図中央)と普請を行った利根川や聖天宮が描かれています。
 寛保3年(1743年)4月に作成されたものです。
 使用した写真は、利根川の洪水の歴史と取りまとめた葛飾区郷土と天文の博物館(2007年発行)の「諸国洪水・川々満水ー貸すリーン台風の教訓」から再掲させていただきました。

妻沼聖天山界隈
妻沼聖天山西参道

 吉川家の復旧工事か終了し、落ち着きを取り戻した地域の中で、この大災害を記録に残そうと石碑が建立され、現在その存在が2基確認されています。
 紹介するものは、妻沼聖天山境内にあるものです。
 妻沼聖天山西参道を入って左手に、柱状の石碑があります。高さ93cm、縦38cm、横44cmです。


妻沼聖天山界隈
聖泉湧出碑正面

 碑が建てられたのは、大洪水の発生から7年後の延享5年(1748年)ですが、正面の刻まれた文字はまだはっきりと判読できます。 

妻沼聖天山界隈
聖泉湧出碑側面

 正面刻字以外は、260年以上も風雨にさらされほとんど判読できませんが、写真撮影し、拡大すると一部の漢字は分かります。調査に当たられた金谷俊夫氏は、拓本を取るなど工夫される一方、旧妻沼町誌(昭和3年版)に碑文の原文写しが記録されていたことを見つけ、碑文の解読をされました。

碑文の伝える内容

 碑の漢詩文は750文字。
 碑文の内容は、斉藤別当実盛による聖天宮創建のこと、寛保の大洪水のこと、住民の窮状の様子、苦しむ人々を救った聖天様の霊験を伝えるものです。興味を引くのは、現在再建されて国宝の指定を受けた聖天堂の元の姿を、間近に見て感動した記述が含まれていることです。
 長くなりますが、参考として漢詩文の後段部分をそのまま掲載します。

利根川畔 妻沼勝郷 魚名後胤 眞盛草創 観音垂跡
聖天霊場 院号歓喜 邦国武蔵 赤城霞色 映扶桑賜
輝宮瓊殿 横虹彩来 彫刻八面 壮観十方 工匠妙手
貴賎眺望 陳禴點燭 誦経供香 □□精進 消除余映
寛保二歳 壬戌之秋 久霖蕩陸 田園就荒 暴嵐烈々
洪水湯々 塡溝塞壑 懐山裹岡 井泥不食 旦暮絶糧
神徳不測 感応無量 社辺奇異 清泉沸揚 上忽平降
吏走賜梁 止飢止渇 可茹可□ 殆穫全命 永記難忘
信 立碑 後昆貽謀 求庶幾者 国家殷昌 九族親睦
君臣和親 法門寧静 祝奇堅強 万民吉利 氏子栄□
黍稷豊稔 桑蠺増昌 風雨齎調 火盛鎭防 干戈不起
禮楽呈祥 青龍衛護 紫鳳翺翔 皇国鞏固 台齢旡彊
 *□印は判読不明箇所。

<読み下し文>
利根川の畔 妻沼の勝郷 魚名の後胤 眞盛草創せる 観音の(すい)(じゃく)
聖天の霊場 院号は歓喜なり 邦国は武蔵 赤城の霞色 扶桑に映じ賜ふ
輝宮瓊殿(けいでん) 虹彩を横たふ 彫刻八面 壮観十方 工匠の妙手なり
貴賎眺望し 祭を陳べ燭を點じ 経を誦し香を供ふや 精神は勇溢し 余央を消除す
寛保二歳 壬戌の秋 (きゅう)(りん)陸を(つつ)み 田園荒に就く 暴嵐烈々
洪水湯々 溝を(うず)め壑を塞ぎ 山を懐み岡を(つつ)む 井は泥して(くら)へず 日は暮れて糧を絶つ
神徳測られず 感応は量無し 社辺の奇異や 清泉沸揚し 上は(たちま)ち降を(おさ)
吏は走て梁を賜ふ 飢を止め渇を止め (くら)う可く(飲む)可し 殆く命を全するを穫たり 永く忘れ難きを記すべく
信(徒)碑を立てて 後昆(こうこん)に謀を(のこ)
()()(ねが)はくは 国家殷昌 九族親睦
君臣和親 法門寧静 祝奇堅強 万民吉利 氏子栄(進)
黍稷豊稔 桑蚕増昌 風雨斉調 火盛鎮防 干戈(かんか)不起
禮楽呈祥 青龍衛護 紫鳳翺翔 皇国(きょう)() 台齢()(きゅう)たらんことを

 まとめとして、金谷俊夫氏の記述された中から、一部引用します。
「寛保の大洪水と称するひとつの大きな事象を核としての史実的記録はもとより地域の文学的要素を匂わせた重厚で格調の高い名文としても貴重といえましょう。残念ながら既に刻字の多くは読み取ることができませんが、郷土の先人達の足跡として或いは伝言として謙虚に受けとめ、更に後世に引き継いでいかなければならない文化的遺産と考えます」


参考
・研究紀要Ⅲ 妻沼史談
         妻沼地域文化財調査研究会  平成20年6月発行
・諸国洪水・川々満水ー貸すリーン台風の教訓
         葛飾区郷土と天文の博物館  平成19年3月発行

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*このコーナーの姉妹編となるホームページを作りました。
  ご覧になってください。
 ・『妻沼聖天山とその界隈


取材記者:逸見稔


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