熊谷次郎直実
熊谷次郎直実お墓所
平日の熊谷寺
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住職のお話によると、熊谷次郎直実が有名になった理由は、二つあるそうです。
一つは、「戦乱の世に、最後まで天寿をまっとう出来た」こと、もう一つは「恨みを残さなかった」からだそうです。また、新渡戸稲造(にとべいなぞう)が、明治時代に「武士道」という本を出しました。日本精神を世界に紹介するために、英語で書かれたもので、アメリカで有名になり、ドイツ語、フランス語、ロシア語などにも翻訳され、日本でもベスト・セラーになりました。本の中で、「『仁』を全うした武士」として、熊谷次郎直実が紹介されています。ちなみに、新渡戸稲造は、5千円札に掲載されています。
熊谷次郎直実は武士としてとても有名ですが、あるときを境に「惻隠の情」に目覚めました。それは、一の谷の戦いです。直実は、幼い頃から弓矢の達人で、源頼朝に「日本一の剛の者」とほめられるほどでした。一の谷の戦いで、平家は敗れ、平敦盛(たいらのあつもり)が馬に乗って逃げているときに、直実がその後ろ姿を見つけ、首を取ろうとしました。しかし、敦盛がまだ自分の子供と変わらない年齢だったことと、きれいな化粧をしていたので、助けてやりたいと躊躇しますが、源氏が後ろから迫っていたのと、自分の命がない事を覚悟した敦盛に、「私の首を取ってから行け。大手柄になるだろう。」と言われ、泣く泣く切り落としました。その後、今までの自分のしてきたことに罪を感じ、法然上人に、救いを求め、「弟子にしてくれ」と刀を研ぎ始めます。「弟子にしてくれれば、どこでも切る。」と、真剣さをみせ、「蓮生法師」と名のり、出家しました。この「蓮生」は、「一蓮托生」からきています。極楽でみんなと一緒に同じ蓮華の上に身を託すと言う意味だそうです。
とても熱心に修行をし、「関東の阿弥陀仏」と評価されるほどでした。その後、熊谷に戻って建てた草庵(そうあん)が現在の熊谷寺の始まりです。安政元年(1854)に火災で焼失してしまいましたが、明治中期から再建が始まり、安政40年(1907)4月10日に、蓮生法師700年忌を期して上棟されたのが、現在の熊谷寺と言われています。
今回、開門され、たくさんの方が訪れていましたが、年配者の方が多かったです。
学校の授業で習いましたが、実際に熊谷寺に行き、住職からお話を聞くほうが、とてもためになると思いました。本堂はとても立派でしたが、修復が必要な所もあるようです。
これからもっと熊谷市民に愛されるお寺になり、おじいちゃん、おばあちゃんから孫へ語り継がれていくように大切にしていかなければいけないと改めて感じました。
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