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今回の知恵 熊谷人物伝


 明治期の埼玉県の街並みを知ることができる「埼玉県営業便覧」(明治35年発行)には川越に次ぎ、
2番目に大きな商業の町として熊谷が紹介されています。埼玉県の中心地とその機能を示す
埼玉県統計書 人口分布図が町の力を表しています。
 そんなわが町「熊谷」には創業100年を越す「老舗」がなんと100社以上あります。江戸時代、宿場町として栄えた熊谷の名残と旦那衆の心意気をそんなみなさんが受け継いでいます。商業を取巻く厳しい状況がつづく昨今ですが、ここぞとばかりの底力を発揮されている、元気の出るお店(会社)をシリーズでご紹介していきます。その第1回目は熊谷市弥生にある、うなぎ「廣川」です。       (ライター Kurihara)


第96回 うなぎ 廣川(うなぎ ひろかわ)
      (老舗訪問シリーズ NO.1)
2010年7月15日更新


くまがやねっと 人物伝 うなぎ 廣川
6代目 関田宗兵さん、幸子さん夫妻

創業167年 伝来の味を守る
うなぎ 廣川

  (熊谷市弥生2-25 048-521-0338)
 熊谷駅から歩いて5分、辺りに香ばしい匂いが漂ってくる。藍染めの暖簾をくぐると女将さん(関田幸子さん)の笑顔と落ち着いた雰囲気のしつらえにホッとする。
 歴史を遡ること167年前天保初期、当主関田家の墓石には初代であろう「天保4年廣川屋和吉」の名が刻まれている。世に云う天保の大飢饉に見舞われた頃である。それから「宇八」「廣吉」「保之助」「勝太郎」と受け継がれ、現在の関田宗兵さんで6代目となる。


くまがやねっと 人物伝 うなぎ 廣川
店構え
 もとは中山道熊谷宿の中でも割烹旅館を営む大棚で当初は中山道(17号国)に面し賑わいを見せていた。4代目保之助は益々の商売繁盛を願い建物を新築したが、その直後に32才で夭折。家族には多額な借金だけが残ってしまい、泣く泣くその土地を手放し、今の弥生町に移ってきた。
 宗兵さんの父・勝太郎は職人気質なひとそのものであった。しかし、長男の宗兵さんには店を継ぐ事でなく「医者」になることを求めた。宗兵さんは熊谷高校(高7回卒)を出てからも医学部を目指し浪人。「父は私が医者になる事を諦め切れなかったのでしょうね。ですが3度の挫折を味わい自分の行く道はもうないと思ったとき、やはり鰻やの倅ですからね。この道に入りました。」
 しかし、父は「鰻」のことは何一つ教えなかった。調理場の傍で見て覚える。父が他界した後に常連さんから「味が変わったね」と云われ、世間の風当たりを冷たく感じる時期もあったが、そんなお得意様の言葉があればこそ今がある。


くまがやねっと 人物伝 うなぎ 廣川
廣川のうなぎ
 廣川のうなぎは作りおきをしない。注文を受けてから裂く。効率は悪いが、新鮮な鰻を味わうにはこれが一番。その仕事ぶりは実に丁寧で美しい。ふっくらと焼き上がった鰻は、口の中でほろりとほぐれる。「鰻を一匹つける」やり方もここならではだ。うな重に乗せられた鰻を見れば他店との違いがわかる。伝来の「たれ」も独自の調合がある。コクがありまろやか。ご飯に滲みたたれがまたなんとも美味い。


くまがやねっと 人物伝 うなぎ 廣川
うちわ祭の7月中は店の入口に山車の
模型が飾られている。
本三四の戸隠山車を再現したもので
明治36年の製作。
他の場所で数十年間展示され部品が汚れ、
劣化したものを2年の歳月をかけ修復した。
一見の価値有。
 実は宗兵さんの長男・学さんは医者になった。「親父(勝太郎)に義理が済んだかな」と宗兵さんは嬉しそうに笑う。長男の代わりに甥っ子たちが店に入った。「かばやきの廣川」の伝統は繋がっている。7月26日は土用の丑の日。伝来の味、廣川のかばやきを食してみてはいかがだろう。
 もう一つ、京都嵯峨野にのれんわけした「廣川」がある。天竜寺の門前にあり、こちらも名店。京都を訪れた際は足を伸ばしてみてほしい。(右京区嵯峨天竜寺北造路町48-1。075-871-5226)



取材日:2010年7月6日/取材記者:Kurihara
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