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徒然歌人日記 原田勇雅
2007年11月17日更新 →バックナンバー
今回のテーマ C音楽のハジメ方


冬も近づき…
皆さんこんにちは!原田勇雅です。
市役所前の並木も紅葉が終わり、枯れ葉の舞い散る季節となりました。



音楽のハジメ方〜シューベルト
徒然歌人日記  さて、今回は大作曲家の幼少時代〜音楽家への道、つまり音楽をいかにして始めたかというお話です。例えば僕はずっとスポーツをやっていて、怪我をきっかけに音楽と出会いましたが、今回は僕の大好きな作曲家、シューベルト(1797~1828)を例に見てみましょう。シューベルトはオーストリアはウィーンを中心に活躍し、32年という短い生涯の中で、歌曲や、オーケストラ、ピアノなど、1000曲余りの作品を残しました。とりわけ歌曲は全体の6割以上を占め、その発展に大きく影響を与え、音楽の世界では「歌曲王」とよばれています。有名な曲には「魔王」、「ます」、「菩提樹」、「セレナード」などがあります。



家庭環境
 シューベルトの音楽の始まりは、家庭からでした。
 お父さんは校長の資格を持ち、私立の学校を経営していました。そのため、教育には熱心で、息子にも様々な教育を施しました。
 基本的な学問をはじめ、特に音楽に秀でていたシューベルトは、教会の指揮者の先生に習うことになります。



天才少年
 師はシューベルトの才能に接し、

「この子は教える前からすべてを知っている!」
「この子の指にはハーモニーが宿っているようだ!」

と感激したそうです。
 やがて公立の全寮制の学校に入学を許可されると、メキメキと存在感を示すようになりました。表面的には内気な少年だったようですが、友人を呼んでは作品を披露するなど、音楽にはとても意欲的でした。友人たちは生涯に渡って彼を支え、彼が友に恵まれていなければ、大作曲家として大成することはなかったことでしょう。



父との葛藤、独立
 モーツァルトやベートーヴェンに傾倒するシューベルトは、どんどんと音楽に没頭するようになりましたが、いわゆる「固い仕事」に就かせたかった父との間には摩擦があったようです。一度は実家の学校を手伝った彼でしたが、やがて独立し、音楽家(作曲家)として生きていったのです。しかしながらその評価がもっとも高まったのは、彼の死後のことでした。彼の作品は後に続く、シューマン、ブラームス、ワーグナーといった作曲家たちにも影響を与えています。
 最後に、シューベルトの作曲した詩の中から、ゲーテの「野ばら」を拙訳にてご紹介します♪
ご興味のある方はぜひ一度お聴き頂ければ幸いです。



野ばら (ゲーテ原詩)

少年は一本の小さなバラを見つけた、
野に咲くバラを、
それはとても若々しく、朝のように美しかった、
少年は近くで見ようと走り寄り、
喜んでそれを見た。
バラよ、バラよ、赤いバラ、
野の小さなバラよ。

少年は言った「僕は君を折るよ。野の小さなバラさん。」
バラは言った「私はあなたを刺すわ、
あなたが私のことを永遠に忘れないように、
そして私は許さない。」
バラよ、バラよ、赤いバラ、
野の小さなバラよ。

そして乱暴な少年は折った、小さな野ばらを
バラは抵抗し、そして刺した、
だがいくら嘆いても叫んでも無駄だった、
仕方なくそれに耐えるしかなかった、
バラよ、バラよ、赤いバラ、
野の小さなバラよ。



ありがとうございました!
 多少、難しい内容になってしまったかな、と反省もしていますが、シューベルトに興味を持って頂けたら幸いです。ますます寒くなって参りますが、お風邪など召されぬよう、ご自愛下さい。
 また来月お会いいたしましょう。
ご感想やご要望は、こちらまでお願いいたします。


取材記者:原田勇雅


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